ベトナム人労働者の人身損害と逸失利益―日本の賠償実務で問題となる「基礎収入」をどう考えるか
- 2026.07.24
- コラム
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日本国内で就労するベトナム人労働者(技能実習生・特定技能外国人等)が労災事故や交通事故の被害に遭い、損害賠償請求における逸失利益の算定が争点となる事案が増えています。被害者がすでにベトナムへ帰国している場合、基礎収入はどう考えるべきか。ベトナム現地の日系法律事務所の観点から、ベトナム法における人身損害賠償の考え方と、基礎収入の立証・反証に使い得る公的統計を整理します。
本稿のポイント
- ベトナム法には、生涯収入ベースで将来利益を一括賠償させる「逸失利益」という損害項目自体が存在しない
- 日本の賃金センサスのような年齢階級別の賃金統計も公表されていない
- 基礎収入の立証・反証には、統計局「労働雇用調査」(2026年上半期:平均月収900万ドン≒約5.3万円)が最も客観性の高い資料となる
目次
1. 問題の所在―帰国したベトナム人被害者の基礎収入
日本の損害賠償実務では、被害者側が日本の賃金センサス(全年齢平均で年収570万円程度)を基礎収入として逸失利益を請求するのが一般的です。これに対し、被害者がすでにベトナムへ帰国している事案では、帰国後の期間についてまで日本の賃金水準で収入を得られる蓋然性があるのか、という反論が考えられます。
そこで「ベトナムの賃金統計を使えばよいのではないか」という発想になりますが、ここには実務上いくつかの落とし穴があります。以下、順に整理します。
2. ベトナム法には「逸失利益」という損害項目が存在しない
まず前提として、ベトナム法には、日本の実務のように生涯収入をベースに将来の得べかりし利益を一括賠償させる「逸失利益」という損害項目自体が存在しません。
生命侵害の場合の賠償項目(民法第591条)
生命侵害の場合の賠償項目は、民法(法律第91/2015/QH13号、2017年1月1日施行。以下「ベトナム民法」といいます)第591条が限定列挙しており、次の4項目に限られます。
- 死亡までの治療費等(第590条第1項の健康侵害による損害)
- 合理的な葬儀費用
- 死者が生前扶養義務を負っていた者への扶養料(定期金方式。未成年の子は18歳に達するまで等の期間制限あり。第593条第2項)
- 近親者(第一順位相続人等)への精神的損害に対する慰謝料
このうち慰謝料は、当事者間で合意できない場合、国が定める基礎給与の100か月分が上限とされています(ベトナム民法第591条第2項)。基礎給与は2026年7月1日以降、月253万ドンです(政府令第161/2026/NĐ-CP号、2026年7月1日施行)。したがって慰謝料の上限は2億5,300万ドン、日本円で約150万円(1円≒170ドンの概算換算。以下同じ)にとどまります。運用の細則は、最高人民裁判所裁判官評議会決議第02/2022/NQ-HĐTP号(2022年9月6日付)が定めています。
後遺障害(健康侵害)の場合
後遺障害の場合も同様で、賠償されるのは事故前の実収入を基準とした現実の収入喪失・減少分であり、収入が不安定で確定できない場合には同種労働の平均収入が基準とされます(ベトナム民法第590条第1項b号)。年齢別の賃金統計を用いて将来収入を一括算定するという手法は採られていません。
このような法定構造のため、ベトナムでは死亡事案であっても賠償総額が日本円で百数十万円から二百万円程度にとどまる例が多いのが実情です。「ベトナムにおける逸失利益(基礎収入)の算定基準」と呼べる公的な資料は存在しない、というのが結論になります。
3. 基礎収入の立証・反証に使い得る客観資料
もっとも、日本の訴訟において帰国後の期間の基礎収入を主張・反証する場面では、ベトナムの賃金水準を示す客観資料が必要になります。実務上利用し得るものとして、以下の3つが挙げられます。
| 資料 | 直近の数値 | 留意点 |
|---|---|---|
| 統計局「労働雇用調査」 | 2026年上半期:労働者平均月収900万ドン(約5.3万円)、賃金雇用労働者1,000万ドン(約5.9万円) | 最も客観性が高い。年齢階級別の区分はなし |
| 家計生活水準調査(VHLSS) | 世帯員一人当たり月間所得560万ドン程度(2024年) | 非就労者を含む世帯員一人当たり所得。賃金統計ではなく基礎収入の資料には不適切 |
| 地域別最低賃金 | 第1地域531万ドン(約3.1万円)〜第4地域370万ドン(約2.2万円)/月 | 出身地域に応じた賃金の下限値の参考 |
(1)統計局「労働雇用調査」
ベトナム統計局(Cục Thống kê。組織再編により現在は財政省の傘下)が四半期・年次で公表する公的統計で、就労者の平均月収を示す資料としては最も客観性の高いものです。直近の公表値では、2025年通年の労働者の平均月収は840万ドン(約4.9万円)、2026年上半期は900万ドン、賃金雇用労働者(給与所得者)に限ると1,000万ドンです。年収換算でおおむね60万〜70万円程度となります。性別・都市/農村・地域・産業別の内訳は公表されていますが、日本の賃金センサスのような年齢階級別の区分はありません。
(2)家計生活水準調査(VHLSS)
「ベトナムの月間平均所得は3万円超」といった報道の出典は、多くの場合この統計です。ただし、この数値は児童・高齢者等の非就労者を含む「世帯員一人当たり」の所得であり、就労者の賃金統計ではありません。基礎収入の資料としては不適切であり、相手方がこの種の数値を援用してきた場合には、むしろ反論の材料となり得ます。
(3)地域別最低賃金
政府令第293/2025/NĐ-CP号(2026年1月1日施行)により、月額最低賃金は第1地域(ハノイ・ホーチミン等の都市部)531万ドンから第4地域(地方部)370万ドンと定められています。被害者の出身地域に応じた賃金の下限値を示す資料として参考になります。
4. 実務上の留意点
上記の統計を利用する際には、次の点に注意が必要です。
第一に、ベトナムは賃金格差が非常に大きい国です。都市部のホワイトカラーで月収30万〜40万円という例が珍しくない一方、地方では世帯月収が数万円という地域も多く、全国平均値が個別の被害者の収入実態を適切に反映するとは限りません。
第二に、被害者側からの再反論も想定されます。具体的には、特定技能等の在留資格による再来日の蓋然性や、ベトナムの賃金上昇率を理由とする増額主張です。実際、労働雇用調査でも2026年上半期の平均月収は前年同期比8.7%増となっており、名目賃金の上昇傾向は顕著です。
第三に、これらの統計はベトナム語でのみ公表されており、日本の裁判所に証拠として提出する場合には該当箇所の特定と翻訳が必要となります。
5. おわりに
ベトナム人被害者の逸失利益の算定は、日越両国の法制度と労働市場の実態が交錯する論点であり、日本の賃金センサスをそのまま用いることにも、ベトナムの平均賃金をそのまま用いることにも、それぞれ反論の余地が残ります。重要なのは、各統計の性質(就労者の賃金か、世帯員一人当たり所得か)を正確に把握した上で、事案に即した主張・立証を組み立てることです。
当事務所では、ベトナムの法令・公的統計の調査、原典の特定・翻訳を含め、日本の訴訟実務でご利用いただくためのサポートを提供しております。ベトナムの労務・労働法制の概要は当事務所のコラム一覧もあわせてご参照ください。お気軽にお問い合わせください。
情報ソース: 民法(法律第91/2015/QH13号)第590条・第591条・第593条/最高人民裁判所裁判官評議会決議第02/2022/NQ-HĐTP号/政府令第161/2026/NĐ-CP号(基礎給与、2026年7月1日施行)/政府令第293/2025/NĐ-CP号(地域別最低賃金、2026年1月1日施行)/統計局2026年7月3日付「2026年第2四半期及び上半期の労働・雇用状況に関するプレスリリース」(nso.gov.vn)ほか当事務所独自調査
免責事項: 本記事の内容は2026年7月16日時点の情報に基づいています。制度の詳細は今後変更される可能性があります。個別の案件については専門家にご相談ください。